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「レミー誕生日」に振り返る レミーが送った激動の生涯

 本日12月24日は「レミーの誕生日」だ。戦後という新しい時代を迎えた1945年に生まれたレミーは、昨年12月28日に70歳でこの世を去った。彼はモーターヘッドのフロントマンとして40年間活動し、23枚のスタジオアルバムを残した。レミーの誕生日に、その人生を振り返ってみよう。

青年時代、ホークウインド加入
 レミーことイアン・フレイザー・キルミスターは、1945年12月24日に英ストークオントレントで生まれ、ウェールズのアングルジー島で育った。少年時代にロックンロールの影響を受けた後、バンド活動のために放浪の旅に出た。ジミ・ヘンドリックスのローディーを務め、サムゴパール、ロッキンヴィカーズといったバンドにギターで参加した後、1972年にベーシストとしてホークウインドに加入し、シーンに躍り出た。この時、たまたまホークウインドのベーシストが不在だったため、偶然レミーがベーシストとして参加することになった。

モーターヘッド結成
 ところが、レミーはツアー中にカナダ国境の都市で麻薬所持によって逮捕される。そのため、ホークウインドを1975年に解雇されると、すぐにモーターヘッドを結成した。結成当初、「世界最低のバンド」と酷評されたが、彼は地道に活動を続け、じわじわと人気を集めた。アルバム『エース・オブ・スペーズ』(1980)で独自のサウンドを完成させ、ライブアルバム『ノースリープティル・ハマースミス』(1981)は全英チャートで1位に輝いた。

ロサンゼルスへ移住
 その後、バンドはメンバーの脱退やレーベルとのトラブルに見舞われたが、それでもレミーはバンド活動をやめなかった。レミーは1991年にイギリスからアメリカのロサンゼルスに移住し、活動の拠点をアメリカに移した。すると、アルバム『1916』(1991)はグラミー賞にノミネートされた。

地道な活動
 1995年にレミーは50歳を迎えたが、音楽性やライフスタイルが変わることはなかった。むしろ、よりハードなサウンドへと変わっていった。アルバム『バスターズ』(1993)や『サクリファイス』(1995)を聴けば、そのことがよくわかる。
 2000年にバンドが結成25周年を迎えると、レミーは伝説的存在とまで言われるようになった。毎年50本以上のライブを行い、精力的に活動した。しかも、それはプライベートジェットで移動するようなものではなく、ツアーバスで移動する地方巡業であった。その甲斐あってか、2005年にはグラミー賞「最優秀メタルパフォーマンス賞」を受賞した。
 2005年にはレミー60歳、モーターヘッドの結成30周年を迎えたが、バンドの活動は休むことがなかった。約2年に1枚のペースでスタジオアルバムを発表し、それ以外の期間は世界各国をツアーした。その様子がテレビで放送されると、2010年にはレミーを追ったドキュメンタリー映画『Lemmy: 49% Motherfucker, 51% Son Of A Bitch』(邦題『極悪レミー』)が公開された。

闘病生活
 その一方で、60歳を過ぎたレミーは糖尿病を患い、健康面で問題を抱えながらも、活動を続けた。2013年にはレミーの病気療養のためツアーをキャンセルするという事態に陥り、しばらく公の場から姿を消した。翌年春、8か月ぶりにステージ復帰したが、痩せ細った姿はファンを心配させた。それでも、レミーは変わらぬ姿勢を貫き、ラウドなロックンロールをプレイし続けた。2014年12月には3度目のグラミー賞ノミネートを果たした。レミーの遺作となったアルバム『バッドマジック』(2015)は、69歳とは思えぬハードかつドライブ感溢れるサウンドで、レミーがまだまだ健在であることを示すものだった。

レミー逝く
 2015年12月24日、レミーは70歳を迎え、その4日後にがんのため自宅で亡くなった。レミーは亡くなる3週間前までツアーを行い、一貫した音楽性と姿勢を示した。イアン・フレイザー・キルミスターは、「モーターヘッドのレミー」という人生を全うしたのだった。

 レミーが亡くなってから1年が過ぎようとしているが、彼の功績は色あせない。レミーは長く曲がりくねった道を歩んだが、後世に太い道を遺した。レミー・キルミスターの素晴らしき人生を称えたい。

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Category: レビュー/エッセイ